毎日書こうと思いながら、書けない。
毎日書いてる人すごいなあ。

今回書くのは、山田孝之のカンヌ映画祭
 これはこの前の「山田孝之の東京都北区赤羽」という作品の延長にある。
あれは、山田孝之という俳優がノンフィクションを演じるという構造だった。
山田が、なぜか演技に疑問を持って仕事ができなくなって、山田孝之個人に戻るというところから始まる。フィクションをやる人がノンフィクションに戻るんですよという導入がなされるというフィクション。で、赤羽で生活し始めて、赤羽に住んでいる漫画家を道案内に赤羽という街に分け入っていく。これがまた面白くて、ノンフィクションに入るために漫画という作品を通す。

ほんと、よく考えてるよねえ。 フィクションとノンフィクションの入れ子。

つまり、一般人の日常生活を描き、それがもうとてつもなく面白いんだけど、そのことの反射で映像作品とは何か、俳優とは何かを明らかにしようという試みだった。

で、今回は、映画を撮るというノンフィクションを山田孝之がフィクションとして描くということになっていて、前作よりもはるかに、映像/映画の喉元に切り込むようになっている。

これ一体誰のアイディアなの?
山田孝之? それとも山下、松江両監督? その全部?

毎週毎週、そこに仕掛けがあって面白いんです。
第6話では、村上淳に首吊りの練習してくださいとかいいます。 もうどこまでホントかそうでないのか分かんないんだけど、世の中には五分も十分も首っていられる人がいて、その人にコツを聞いて、村上もできるようになれとかいうわけです。 村上は俳優村上と作中の人物の二重の演技をするわけだ。村上という俳優が、素の村上から俳優村上になって、作中の人物を演じるために、本当に首を吊るんじゃなくて、首を吊った振りをする、そのまた練習をするという演技をする。 わっはっは。 そこから、見えてくるものはなんだろうね。